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「もっと丁寧に書きなさい!」「あとで見返して自分が困るでしょ!」
お茶の間のあちこちで、今日も母親たちの悲鳴に近い指導が響いている。しかし、断言しよう。その「丁寧な字」へのこだわりが、実は子どもの学力をじわじわと停滞させている可能性がある。
沖縄で教育業界へ身をおいてきたものとして、小学生のお子さんをお持ちの方と共有できればと思う。
子どものやる気を奪う「映えノート」の罠
ヤフーニュースの記事でも指摘されていたが、多くの子どもが陥る罠、それが「ノートの清書化」だ。
色ペンを何色も使い分け、定規で完璧な線を引き、まるでお手本のような文字を並べる。一見すると素晴らしい学習態度に見えるが、実はこれが危ない。
子どもにとって、ノートを綺麗に書くことが「目的」になってしまうと、脳は「どう書くか」にフル稼働し、「何を学ぶか」がお留守になる。
書き終えた瞬間に達成感のピークが訪れ、肝心の内容は右から左へ。これではただの「写経」であり、苦行でしかない。やる気が失せるのも当然だ。
筆者の「汚文字」脱出大作戦(笑える失敗談)
ここで、私自身の恥ずかしい経験を白状する。
かつての私のノートは、もはや古代文字の羅列だった。あまりの汚さに、母は燃えんばかりの情熱で私に習字をさせ、横に張り付いて「もっと丸みを持たせて!」と熱血指導を繰り出した。
しかし、結果は惨敗。母の愛が強ければ強いほど、私の字は反抗期を迎え、さらに解読不能なミミズののたくりのようになっていった。母が怒り狂う横で、私はどこか他人事のようにヘラヘラしていたものである。

そんな私が、ある日突然、誰にでも読める字が書けるようになった。きっかけは美学ではなく「数学的妥協」だ。
「字は芸術ではない。記号の配置バランスだ」
そう意識を変換した瞬間、私の脳内で革命が起きた。美しく書こうとするのをやめ、単に「横線はこのあたり」「縦線はこの角度」と、レゴブロックを組み立てるような感覚で記号を置いていったのだ。
結果、芸術性はゼロだが、人類が共通して認識できる「普通に読める字」が爆誕した。母の数年間にわたる熱血指導は何だったのか。結局、本人の「意識のバグ」を修正するのが一番の近道だったのである。
学力が高い子のノートは「思考の足跡」がある
仕事の関係で多くの子どもたちを見てきたが、本当に学力が高い子のノートは、必ずしも美しくはない。
しかし、彼らのノートには共通点がある。それは「なぜ、その答えに辿り着いたのか」という思考のプロセスが残っていることだ。
計算の過程、自分がどこで迷ったかのメモ、図解。彼らにとってノートは「見せるための展示品」ではなく、自分の「思考を整理するための作業場」なのだ。
注意!「読めない字」は点数にならない
ただし、ここで一つ重要な注意点を。
「字は読めればいい」とは言ったが、それはあくまで「他人がストレスなく読めるレベル」が最低ラインだ。
どんなに頭の中で天才的な数式を組み立てていても、採点者が「これ、『6』かな?『0』かな?……ええい、バツだ!」と判断してしまえば、そこでおしまいである。入試や試験は、採点者という「読者」に向けたプレゼンテーションでもあるのだ。
「綺麗」である必要はないが、「判別可能」であることは、知性を点数に結びつけるための最低限のマナーだと言える。
まとめ:ノートは「脳の外付けハードディスク」
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学力を上げるノート指導は「試行錯誤の跡」を認めること。
文字は記号だ。バランスさえ整えば、誰でも「読める」ようにはなる。
親がすべきは、ノートを真っ赤に添削することではない。子どもがノートの上で自由にのびのびと、失敗したり悩んだりしている「思考のプロセス」を面白がってやることではないだろうか。
とりあえず、今日から定規と多すぎる色ペンを置いて、もっと泥臭く、もっと「脳みそを動かす」ノート作りを始めてみよう。
賢くなるノートも大切、その前に考える力を身につけることはもっと大事なこと。そもそも考える習慣、がなければ思考の流れをノートに書くことは難しい。思考力を高めるヒントが読解力にあるで!
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